くるりは文学 ナンバーガールは哲学 スーパーカーは神話

のり‐すご・す【乗(り)過ごす】 [動サ五(四)]下車予定の場所より先まで行ってしまう。乗り越す。「うっかりして一駅―・す」

goo辞書「のり‐すご・す【乗(り)過ごす】」


くるりの「ばらの花」という曲に「最終バス乗り過ごしてもう君に会えない」というくだりがあるんだけど、僕は今までこの歌詞の意味を「本当は乗るつもりだった終バスの発車時刻に(仕事や世の中のしがらみなどのやんごとなき理由により)間に合うことができず、(貴方が待っているはずの街に行くことが叶わなくなり)君に会うことができなくなってしまった。(そして二度と君に会うことができなくなるであろう悲しい予感を僕は胸に抱いている。)」というものだと解釈していて、「切ないなあ。切ないなあ。くるりは文学だなあ」と思っていた。けど、これよく考えてみたら「バスには乗ることができたけど、寝過したか何かの理由で目的の停留所をうっかり通り過ぎてしまった」というおっちょこちょいさんのお話だったんじゃないか? ということに最近気付き、そう考えると、続く「あんなに近づいたのに遠くなっていく」という歌詞が、「一時期近付いた彼女との距離が、結局これといった発展もなく次第にフェイドアウトしてなんとなく胸を痛めている」主人公の心情を、「彼女がいる場所へ一度は近付きつつも、そのまま事務的に素通りし、ただ走り続けるバスに揺られる」主人公の姿と重ね合わせた表現であるという解釈が可能になり、これは自分にとって目から鱗でした。そしてその一連の「通り過ぎていく」という運動は、「淡々と過ぎ去っていく日常」になぞらえることもできるでしょう。まあおっちょこちょいとかネタっぽく言ったけど、もともと「(本心ではもっと懇ろな間柄になりたいと思っているのに)現状の距離感や関係性を失いたくないがために今以上に接近したりアプローチを起こすことを恐れ、踏み込めないままでいる」のがこの曲の主人公なので、これは自分の意思で乗り過ごしたというのが正解かな。より正しく言えば「降りる決心ができなかった」か。

ただ引っかかるのは「最終バス」を「乗り過ごす」という表現で、一般的に「乗り過ごす」のは「駅」や「バス停」などの「目的地」であって、「乗り物」そのものである「バス」を乗り過ごすとは一体なんぞや?日本語としておかしくないか? という話になる。自分が今までこの歌詞を「終バスに乗れなかった」と解釈していた原因もそこにある。そもそも単に停留所を乗り過ごすという表現ならば「終バス」である必然性はあまりないような気もするし。「最終バス(に乗っている僕が君の住む街のバス停を)乗り過ごして(=終バスが走る時間なので反対方面のバスも運行が終了しているため引き戻る手段もなくて)もう君に会えない」という意味なのだろうか。うーん、やっぱりまだよくわからんな。

なんか、最初はネタっぽいエントリにしようと思って書き始めたのに、考えていくうちになんだか本当にこっちの方が正解のような気がしてきて少し真面目に考えてしまった。やっぱりくるりは文学や!