神様を信じる強さを僕に

こんにちは。報告が遅れましたが、というかわざわざ言うまでもないことでしょうが、小沢健二ライブのチケットは二次抽選も外れました。ヤフオクとかは全くチェックしてないのでどのくらい高騰しているのかも知りませんが、そういう手段でチケットを確保するのもなんだかなあという感じなので今回はもうスルーすることにします。みなさんレポートよろしく。

そんなことより先日のUstream配信はご覧になられましたか。相変わらず「今度こそひふみよ再現ライブだ!」等の妄言を放っている人もいたような感じですが(なんでしょう。こういう人は、手軽にライブ配信ができるようになればミュージシャンは無料で演奏を披露するのが当然とでも思ってるのでしょうか。)、なんと言ってもひふみよボックスセットの発売ですよ! ひふみよライブCD3枚組にも血わき肉躍りますが(あと写真立てとかボタンとかワケのわからない方向性にも)、昨年のUst配信の後に「今でも「ドゥワッチャライク」の単行本化を熱望する元オリーブ少女の皆様方はご覧になられましたでしょうか。」とか(鼻くそほじりながら)書いたら本当に書籍化された! ので、小沢健二が当ブログの読者である可能性が微粒子レベルで存在することが確認されたわけですよ!!!

夢が夢なら


小沢健二外れた。ああ外れたさ。初日とか最終日とか休日は倍率が高いだろうから安全牌の平日を狙ってチケット取ろう、大丈夫、地方の遠征組は平日なんて来れやしないし、都心組は都心組で、小沢健二のコンサートに来るような連中はもういい歳だろうから平日に悠々とコンサートに行けるほど暇じゃない、そう、その隙を突いてワタクシは有給を使えばいいのだ、なーんて余裕ぶっこいてたらブザマに落選。なんかー? 結局友人とか家族とかー? 人海戦術を駆使したほうが当選しやすかったー? みたいなー? ド真面目に自分の分だけ(チケットは2枚にしたけど)申し込んだ僕が馬鹿でした。どうした、笑えよテンバイヤー。

とはいえ、ヤフオクで法外な価格を払って買うのもアホらしいし、最後の望みを二次抽選に賭けるしかなさそう。チケットのキャンセル(代金未払い)があれば行われるという二次抽選。全く無いわけじゃないだろうけど、あったとしてもホンの僅かな席だろうなー。実質これで終わったって感じかなあ。あー。すっかりコンサートに行く気満々だっただけにがっかりです。残念過ぎて禿げそう。

森永ダースのCM撮影がローマに決定。スッチャーデスさんボンジョルノ!飛行機乗ってワイン飲んでダース食って寝る。ところがローマではスペイン階段が工事中で撮影は中止!がーっかりしたからホテル帰ってダース食ってあー眠い...寝てました、ほんと。オレな〜にやってんだろってな気分も吹っ飛ぶ森永ダース!

東京オペラシティにて3月21日から始まる小沢健二のコンサート「東京の街が奏でる」。僕もチケット申し込みました。申し込みの行為自体は受付が開始した当日に済ませているにも関わらず、受付期間が終了した今になってこうして「チケット申し込んだよ〜」的なことをのうのうとしたためているのは、チケットの申し込みをうっかり忘れていた小沢ファンが万が一このブログを見て思い出したとしても、もう申し込みができない、つまりチケットの競争率をムダに上げさせないという我ながらのセコい作戦によるものであります。まーこんなブログ、誰も見ていませんが。

  • 第一希望 3月22日(木)
  • 第二希望 3月26日(月)
  • 第三希望 4月12日(木)

初日や最終日、あるいは休日の公演を敢えて全て外し、平日のみで攻めるというチキンっぷりを披露。前回のコンサートの時はチケットの申し込み自体していなかったのでどの程度の倍率になるのか予測が立たないんですが、ファンの反応を見ていると「9,000円とかたけーよ馬鹿」的な人も結構いて、前回みたいな「13年ぶり!」という新鮮味も多少は薄れているだろうし、思いのほか取りやすいのかなーなんて楽観的に構えていますが、どうでしょう。

チケットの価格については、まあ安いとは思いませんけど、僕の場合は「チケットが安いからライブを見に行く」という思考が無いのでそれほど気にはなりませんでした。チケットの価格云々よりも、自分がそのアーティストのライブを見たいのか見たくないかという気持ちが、個人的に重要なポイントなのだと思います。さすがに一枚30,000円とかなら躊躇いますけど、9,000円なら、ねえ?

なお、一応チケットは2枚申し込んでいるんですが、仮に当選しても一緒に行く人がいません。誘ったら誰か付き合ってくれるかなー。

10年前の僕らは胸をいためて「いとしのエリー」なんて聴いてた


そう言えば何日か前に小沢健二Ustreamで緊急配信!ってことで大騒ぎがありましたけども、今でも「ドゥワッチャライク」の単行本化を熱望する元オリーブ少女の皆様方はご覧になられましたでしょうか。ええ、わずか15分程度の短い配信で、うち本人が喋ってた時間は正味何分? 実際のところ、話した内容よりも、とにかく「ひふみよサイト」にアクセスできなかったことばかりが印象に残る不思議な体験でした。要は「ライブしますよ」という告知配信だったわけですけれど、「Ustreamを使って生ライブの配信をするのでは?!」とバスルームでひとりきり大暴れしていた一部の人は落胆ムードだったようですね。プークスクス。個人的には、「小沢健二のことだから絶対遅刻する。時間通りに始まるわけがない」と思っていたんですが、ほぼ予告時刻通りに始まったのでいささか拍子抜けでした。遅刻しない小沢健二なんて!

ちなみに去年(なんかもっと遠い昔の話だったような気がしますが、確かにまだ1年半前の話です)のライブの時は、僕は行けなくて。行けなかったというか、知らないうちにチケットが発売されて、知らないうちにソールドアウトになっていたって感じだったんですが。んーでも、「今まで散々過去を切り捨ててきたのに2010年に突然『LIFE』期の曲をやるってのはどうなのよ?」的な独りよがりな煮え切らなさを抱えていたということも否定できず、皆のライブレポートをぼんやりと眺めてはそんな自分を慰めていたものです。皆が盛り上がっていると素直に盛り上がれないツンデレな自分の性格をどうにかしたい。

しましまあ、1年経った今は素直になりまして、小沢健二のライブに行けるかもしれないという喜びの方が圧倒的に上回っておりますので、幸運にも足を運べるようなことがありましたら精一杯楽しみたいなと思います。

待ってろオザケン*1

*1:ところで皆さんは無邪気に「オザケン」と呼びますけども、個人的にはこの呼び方はあまり好きではないです。なんか「キムタク」とか「ゴマキ」(ゴマキ言うな)みたいな、ケーハクでにわかなファンが使いそうな呼称のように感じませんか? しかし、だからと言って「小沢」と呼び捨てにするのは偉そうぶってる感じがして嫌だし、「小沢さん」は仰々しい。「健二」「健ちゃん」「健坊」と下の名前で呼ぶのも馴れ馴れしさだけが際立って気持ち悪い。なので、僕が文章に書くときには「小沢健二」とフルネームで表記するのが一番しっくりくるかなあと思ってそうしているんですが、ホラ、ツイッターとかでみんなが「オザケン」「オザケン」とキャッキャウフフしている時にひとりだけ「小沢健二が…(ブツブツ」と呟くのって、クラスの輪に入れずに教室の片隅で寂しそうにしているぼっちの姿が思い浮かびませんか? 本当は仲間に入れてもらいたいのに、それを素直に態度に表せない不器用な寂しがり屋の姿が思い浮かびませんか? ていうかそれ、高校時代の僕なんですけど。休み時間に「ロッキングオンジャパン」とかひとりで読んでた僕の姿なんですけど。しかしもうそんな孤独な思いに苛まれるのも嫌なので、皆に同調する形で僕も「オザケン」「オザケン」とゆうてるわけです。「オザケン」なんてミーハーな呼称は認めないぞと心の中では主張しつつ、でもみんなの輪には加わりたくて体面上は「オザケン」と呼んで屈しているわけです。しかし覚えていて欲しい。僕が「おーざーけーん」とキーボードをタイピングする度、実は心の奥底で苦々しい思いをしているということを…。

読み終わった本と聞き飽きたCD

田舎生まれの百姓なので今でも青山とか代官山とか銀座に代表される都会のオシャレスポットに間違って足を踏み入れようものならば皮膚が著しく乾燥し、唇はひび割れ、頭髪は8割がた抜け落ちてしまい、爪は先の方からボロボロと剥がれ落ちてしまう症状を患っており、たまの休日も普段は自宅とコンビニの往復で過ごし、ちょっと足を延ばすにしても都心なんて無理無理、せいぜい郊外のブックオフで立ち読みをするのが精一杯です。

そんなブックオフ。店内放送に耳を傾けると「読み終わった本や聞き飽きたCDがあったら買い取るぞなもし」的なことを言っているわけですが、これがずっと前からどうも心の片隅に引っかかっておりました。「読み終わった本」はいい。しかし、「聞き飽きたCD」とは一体どういう了見ぞなもし。なんか、CDを売るのは「もうこのCDは僕をエキサイトしてくれない、ただの円盤に成り下がってしまったから」みたいな、ものすごいネガティブな意味合いに取られてしまいませんか? 本と同じように「聞き終わったCD」という表現じゃいけなかったんですか? CDは繰り返し聞くことが前提のメディアだから? いや、本だって繰り返し読みますよ? 何故? 何故CDだけ? 今まで僕が聞いてきた音楽は、繰り返し聞くことで消費されてしまうような、そんな安っぽい商業音楽だったのか? いや違う。僕の耳と、センスと、直感で精選された音楽はもっとこう、なんて言うか、スペシャルな存在だったはずだ。そう、僕の聞く音楽は世界中に鳴り響き、この腐りきった世界を変えるファンファーレになるはずだ。ロックによる無血革命だ。ストーンローゼズ、オアシス、ベック、ミッシェル・ガン・エレファントレディオヘッド中村一義ストロークス…。僕はあの子の彼氏よりもずっといい音楽を知っているし、それを知れば彼女もきっと彼氏なんかよりも僕の方に気が向くはずなんだ。向くはずなんだよ! それを「聞き飽きた」だって? そんな馬鹿な!

そんな悶々とした気持ちで読み終わった本と聞き飽きたCD、あとDVDとゲームソフトなどを袋に詰めて、ブックオフの出張サービスで買い取ってもらいました。いくらになるのかなあ?

くるりは文学 ナンバーガールは哲学 スーパーカーは神話

のり‐すご・す【乗(り)過ごす】 [動サ五(四)]下車予定の場所より先まで行ってしまう。乗り越す。「うっかりして一駅―・す」

goo辞書「のり‐すご・す【乗(り)過ごす】」


くるりの「ばらの花」という曲に「最終バス乗り過ごしてもう君に会えない」というくだりがあるんだけど、僕は今までこの歌詞の意味を「本当は乗るつもりだった終バスの発車時刻に(仕事や世の中のしがらみなどのやんごとなき理由により)間に合うことができず、(貴方が待っているはずの街に行くことが叶わなくなり)君に会うことができなくなってしまった。(そして二度と君に会うことができなくなるであろう悲しい予感を僕は胸に抱いている。)」というものだと解釈していて、「切ないなあ。切ないなあ。くるりは文学だなあ」と思っていた。けど、これよく考えてみたら「バスには乗ることができたけど、寝過したか何かの理由で目的の停留所をうっかり通り過ぎてしまった」というおっちょこちょいさんのお話だったんじゃないか? ということに最近気付き、そう考えると、続く「あんなに近づいたのに遠くなっていく」という歌詞が、「一時期近付いた彼女との距離が、結局これといった発展もなく次第にフェイドアウトしてなんとなく胸を痛めている」主人公の心情を、「彼女がいる場所へ一度は近付きつつも、そのまま事務的に素通りし、ただ走り続けるバスに揺られる」主人公の姿と重ね合わせた表現であるという解釈が可能になり、これは自分にとって目から鱗でした。そしてその一連の「通り過ぎていく」という運動は、「淡々と過ぎ去っていく日常」になぞらえることもできるでしょう。まあおっちょこちょいとかネタっぽく言ったけど、もともと「(本心ではもっと懇ろな間柄になりたいと思っているのに)現状の距離感や関係性を失いたくないがために今以上に接近したりアプローチを起こすことを恐れ、踏み込めないままでいる」のがこの曲の主人公なので、これは自分の意思で乗り過ごしたというのが正解かな。より正しく言えば「降りる決心ができなかった」か。

ただ引っかかるのは「最終バス」を「乗り過ごす」という表現で、一般的に「乗り過ごす」のは「駅」や「バス停」などの「目的地」であって、「乗り物」そのものである「バス」を乗り過ごすとは一体なんぞや?日本語としておかしくないか? という話になる。自分が今までこの歌詞を「終バスに乗れなかった」と解釈していた原因もそこにある。そもそも単に停留所を乗り過ごすという表現ならば「終バス」である必然性はあまりないような気もするし。「最終バス(に乗っている僕が君の住む街のバス停を)乗り過ごして(=終バスが走る時間なので反対方面のバスも運行が終了しているため引き戻る手段もなくて)もう君に会えない」という意味なのだろうか。うーん、やっぱりまだよくわからんな。

なんか、最初はネタっぽいエントリにしようと思って書き始めたのに、考えていくうちになんだか本当にこっちの方が正解のような気がしてきて少し真面目に考えてしまった。やっぱりくるりは文学や!